今日、おおかみこどもの雨と雪みてきました。
その感想を。熱が冷めて忘れないうちに。

話としては、大学生の花がふらっと大学の授業を聞きに来たおおかみの青年に恋をして、付き合って、子どもがうまれて(これが”おおかみこども”)、その子らが大きくなっていく過程のお話。


この映画を見ての感想は、とにかく後味が悪い。そこで終わるの?っていうのもあったし(個人的にはもっとその先も見たかった)、単純に見るのでは違和感がありすぎる。もやもやした。簡単に片付けていいのかなと思ったからつらつらと書きます。

最初のとき。普通の女子大生が母になるまでの過程が早くって、まじかってなった。なんだろう、リアル感がなくて、どっち(リアルベースか物語みたいなフィクションベースなのか)なんだろうなーっていうのを感じた。あと、急におおかみの青年が亡くなっちゃったのもなんでだろうと思った。亡くなったおおかみの姿としてそれがそのままゴミの収集車に入れられちゃったのはえええーってなった。

そこで収入がなくなっちゃったところで、現実的に考えて、この先どうして行くんだろうと思った。都会で、収入もない。周りも人たちも理解がないのかわかんないんだけど、すごい冷たい。わかってあげられないのかな。ただ、自分がそういう経験をしてないからそういうふうに考えちゃうのかもしれないけど。大丈夫なんだろうか、ってすごい考えた。人間の冷たさをひしひしと思った。

おおかみこどもがぐずってたときの、お母さんの対応にスゴイと思った。むっちゃ机の足をかじってぼろっぼろにするし、部屋にあるものをぐちゃぐちゃにするし、まじかっていうぐらいなんだけど、それに対して怒らないで、するするーっと片付けてるところがはあああーってなった。それを受け入れられるんやすごいってなった。

気になったのは、草平に雪ががりっとやってしまった後の、みんなのその後の対応にあれーって思った。最初の頃はあんなん騒いでたのに、その後は意外とスルーしてるなーって。普通に遊んでたし。一過性ってことなのかな。伝えたいのはそこじゃないのかな。わからん。

そういえば、辻村さんの「スロウハイツの神様」の一節に
”思うに人間とは、余裕のある非日常に晒されたとき、そこにイベント性を見出すことができてしまう生き物なのだ。単調な日々に現れたイベントに縋りつき、それに関わりたいと切実に願ってしまう。”

ってあって、多分これもそういうことなのかなと思った。イベント性、たまたま人の少ない小さな学校にこういう傷つける事件が起きたからみんなが飛びついただけなのかな。



全体的にそこ必要じゃないのかなーっていうとこが飛んでて、詳しくーって思う節がちらほらと。
例えば、おおかみの青年の生い立ちとか、花がおおかみの青年との子どもを産もうとした理由とか、草平の母さんが結婚して子どもができるってなったとき、草平はもう必要ないって言われて(自分でそのことを言って)、その後は雪の話になっちゃって、あれ?みたいな。あとは、花は奨学金で生活費とかも自分で工面してきて頑張ってきたのに、いつの間にか子ども育てるのに最優先になってしまっていること。
見てる人に考えてもらおうと思ってあえて外してるのか、それとも言いたいこととはあまり関係ないから外してたのか。



自分が思うのは、なんでこの映画をつくったんだろうってこと。監督の意図が掴めない映画だった。自分の理解が足りなかったのかもしれない。伝えたいことがたくさんあるような気もするし、ただそういう話をつくってみたかったっていうのもあるのかも。あとで、@haruna26さんがまとめてくれたNAVERまとめを読もうと思います。

・人間がおおかみと共存するのは難しいってこと?
・家族のありかたを問うているの?
・一人で子どもを育てる母の辛さ?
・子離れのときの母親の辛さ?
・自然のよさ?人間の多様性?
・生きるものの多様性?

考えれば考えるほど、よくわかんない。
どれも当てはまるし、どれにも当てはまらないような気がする。



最初の頃は、雪は自分が今まで生きてきた自然の中で楽しさを見出してて、それを目一杯楽しんでた。
一方雨は、ただただすべての物事に怯えてて、いつも母さんのそばで泣いてた。

それがいつの間にか、雪は学校のみんなに取り込まれってて(っていう言い方がどうかはわからないけど)、よくいるようなかわいい小学生になっていく(妙に大人びてる感はあったけど)。それは、”「人間」の雪”として。
逆に、今までびびりだった雨は、いつの間にか森にいる「先生」と呼んで慕うオオカミにずっとつきっきりで”「オオカミ」の雨”になっていく。

いつの間にか立場が逆になって、それが何だか物寂しい感じがした。一言で言うなら成長していくこの姿を見つめる母的な目線から見て寂しいと思った。私の子がいつの間にか大きくなってしまったわ…。みたいな。子離れ?
でも、それは誰かに話せるわけもなく、ただひたすら自分と話すことでしか解決できない花の辛さっていうのもちょっと感じた。どうすればいいの?みたいな。村の人はオオカミを嫌ってるような節が出てたし。

花は花で、おおかみの子どもを育ててるなんて、誰にも話せないでもどかしいはずなのに、常に笑ってて、並大抵じゃないと思った。すごい。「へこたれない」がしっくりくる人だなあ、って。

雨を探しに花がびしょびしょになって、最後雨が花を助けて、駐車場までおぶってって、最後の別れを言う場面、何だか辛かった。おおかみの子どもとして生まれてきて、おおかみの血はあるわけだから血にはあがらえず、オオカミとして生きていくことを選んだ雨と人間としての花。うーん、最後はヒトとオオカミは一緒に暮らせないのかなーって感傷に浸った。母親にとって辛いだろうな、と。

そんな母親的目線からもこの映画はみれたし、その一方でこういう話も実は起こりうるかもしれないっていう仮想現実な話にも思えた。

最後に。雨はオオカミとして山に行っちゃって、雪は中学生になって寮に入ることになったから、花は寂しいんじゃないかなあって思いました。

結構賛否両論あると思いますこの映画。
感情移入しすぎた場面もあって、ちょっと偏りすぎたかもしれないです。
映像がきれいでそこが何か癒された。雪が降った日、3人が走り回って、最後雪にばふってなったとき、ああ、幸せそう、いいなーって思った。その場面すき。
逆に映像のきれいさが違和感を生んだっていうのもあったけど。



一回見てはどうですか?
何かあったら聞かせてください。
話したいです。

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[追記]
アニメとしてこういうミスマッチを指摘するのはナンセンスかもしれないですけど、個人的にリアルぽい話だなーと思ったのでこれを書いてます。

監督のインタビューでは、おおかみこどもはマイノリティだからゲイだとか同性婚だとかそういうのは考えてないと言っていたんですが、最初に映画を見たとき、”おおかみの子ども”は周囲からなかなか理解されないであろう、そういう意味でも捉えられる話でもあったなあ、って思いました。

確かに、「母」に焦点をあてたのってなかなかないですね。でも、かといって子どもが脇にいってるかっていうとそうでもない。そういう意味では、バランスがよかったのかもしれません。

あと、音楽がすごいマッチしてて、ああ、いいなーって。サントラ欲しいです。

今わかった。
違和感は「おおかみこども」という点を除いて、すべてを「自然な流れ」にしようとしてるからじゃないかと。普通に人間としての生き方に沿って時間軸も流れていくし、母親像もできているのに、どこかそれが違和感な気が。どうやろ。不自然さをさも自然なように描いているからなのかな?


この人のブログを見て思った、誰が主人公かって。母なようで意外とこどもなんじゃないのかと。

”この映画の主役が実は子供たちで、母親は脇役に過ぎず、しかも主役の子供たちを苦しめる悪役でもあったのだ。そうして最後は、子供たちに逆襲されて、こらしめられる役なのである。
物語の最後、二人の子供はどちらもその苦しみから抜け出すことに成功する。最愛の母親ではあるけれども、その言いつけに背いたり、あるいはそこから逃れ、離れて暮らすことを決めるのだ。そうして、ダブルバインドの拘束から逃れることに成功するのである。”


最後のあれは逃亡なんかなー?親離れなんかなー?逃げ出したくて逃げ出したんか、それとも普通の人間が思うような親から離れたいみたいな感じなのか。わからん。

はああー。これも納得。

”この作品では「あなたのすてきな個性をどうして隠さなきゃいけないの?」という疑問は一切描かれません。「"おおかみこども" であることをどうやって受け入れるか」という葛藤は徹頭徹尾個人の実存の問題として処理されます。社会は問う気にもならないほど冷たい壁なのです。
結末では、雨はオオカミとして山の中で、雪は人間として町で生きるという選択が示されます。つまり、社会で生きづらい個性を持った者は、隔離された場所で生きるか、個性を隠して生きるか、しかないということです。個性を尊重されて生きていくという道がないのです。”



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