この前、知ることは自分を変えるきっかけを作ってくれるとても簡単な経験だと言いました。

そして、前回の記事で「今ではこどもが生まれる前に自分の子供が障がいを持っているかどうかを知ることができる」という事実に対して、その場面に置かれた場合自分ならどうするか考え、そういう話をしているときってどこか第三者的な目線になってしまっているような気がするということを書きました。

今回は、そういう「知る」ということが、実は新たな悩みを増やしているんだなーっていうことを書こうと思います。


さっき読み終わった「特別授業3.11 君たちはどう生きるか」という本の、理科の部門で蒲田浩毅さんが、ちょうどこの出生前診断について書かれていてちょうどよかったので今回引用させてもらいます。

”胎児の首の後ろに頸部浮腫というむくみが認められた場合、障がいをもつ可能性があることがわかってきたのです。むくみがあったからといって必ず障がいをもつわけではありません。健康な赤ちゃんが生まれたケースも多々あります。でも、可能性が0でない限り、親は不安になります。 
…じつは、この原稿を書いている最中、妊婦の血液検査だけで胎児がダウン症という障がいを持つかどうか、ほぼ確定できる出生前診断がアメリカで始まったと報じられました。検査の時にりゅうさんする可能性がなくなるのだから、これを歓迎する技術の進歩と考える人が多いかもしれません。でも、検査が簡単だからといって安易に行われるようになると、人口妊娠中絶を助長することになりませんか。 
…日本婦人科医会では、超音波検査などで胎児の先天性の病気が見つかって人口妊娠中絶をしたとみられる事例は、過去20年間で7倍あまりに増えたこともわかりました。 
授かりものであったはずの赤ちゃんが、今では、選ぶものになってしまったのです。

これを読んで、前まで、技術の進歩に感謝をしていて、今の時代はすごいなーとか思ってたし、いろんなことを知れてうれしいなーとか思ってたけど、その一方で「知ることができる」ようになって何か大切な何かを落としてきちゃったような気もしました。

最後の「授かりものが選ぶものになったしまった」というフレーズ。もちろん自分たちが産むか産まないかっていうのは選択権はあるけど、授かったものをぶつんと切る選択権もあるのかなって今モヤモヤしています。診断で知ることができなかったころでは考えることは出来なかった問題。

先天性の病気があるかもしれないっていうのは、いつの時代でも変わらないことだし不変の事実。

知ることができる時代に生まれたことで、新たに悩みも増えてきたなとふと思いました。知らなくてもさしてかわらなかったことを知りすぎてたっていうのが悩みのタネになったりストレスを生んじゃうのかなとも。(知ることはいいことだと言ったことに矛盾するけど)



そうやって書いてて、でもそういうのはこの時代では避けられないトピックだよなーとも感じました。医術の進歩、住みよい生活のためにいろんな人が日々奮闘しています。してくれています。とてもありがたい。そういう人達の善意が今の生活を成り立たせてくれます。昔の生活と今の生活だったら、絶対今の生活水準のほうが高いし、潤ってる気がする。ネットで調べればいろんな情報がすぐに得られて、それを利用することもできる。

自分たちの生活をよりよくさせようとしている、それかそれが自分のためであっても、そういう善意が必ずしも思うような方向に行ってるわけではないのかなって今回思いました。


P.S 「君たちはどう生きるか」っていう本は、教科ごとその分野で著名な人が10代−20代にもわかってもらえるよう、震災のことも絡めながらわかりやすくまとめてある本です。あさのあつこさん、田中優さんあたりは有名じゃないでしょうか。ぜひ読んでみてください。



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