SHINSAI

(2012/03/10)

東日本震災からもう一年が経ちました。
僕らからしたらあっという間、
向こうの東北の人たちからしたらまだまだやっとかぐらいだろうと思います。

2011年は激動の年だったと思います。震災を通して、ラッシュ、誤報道、原発などたくさんの未曾有の出来事が同時に起こりました。まさか、急にあんな大地震が起きるとは誰にも思わなかったはず。震災当時、僕自身は、和歌山県の白浜にいました。そこはほとんど揺れなかったにもかかわらず、地震の影響で高速が使えなくなって危うく帰れなくなるところでした。(バスの運転手さんがなんとか頑張って送ってくれました。あの時はありがとうございました。)

2011年3月11日14時46分。

あれから自分は何を感じたか、そしてこれからどうしていったらいいのか考えました。

1つ目に、非日常はやがて日常に変わってしまうということ
どかんと大きな出来事が起こるとみんなの関心がその方向に集中します。メディアもたくさん報道する。だってそれを無視して他の記事を書くのは見当はずれになってしまうから。最初は、日本中の人が東北の人たちの安否を気にしていたと思います。しかし、現在それが薄れつつあるように感じます。メディアが煽る原発事故にかき消されて東北の人たちのことよりも放射線だとかセシウムだとか、半径何キロまでは入ることができないだとかそっちの方に関心がいってしまったのではないかと思います。そしてだんだん「東日本大震災」という”非日常”が震災とは関係なかった日常の中に入ってしまい、忘れてはいないとは思うものの、心の中のどこかにいってしまったように思えます。どこか、震災がイベント化してしまったように感じるのです。震災当時あんなに多くの団体が街の至る所で募金活動をしていたのに今は、ほとんど見かけません。去年の10月に所属する団体の関西一斉の合同募金をしているときに、「私はもう募金しましたよ?」って言われたことが頭から離れません。いやいや、何回も募金したからいいってことにはならないでしょ?と思って。震災は一過性ではないし、ずっとこれから何十年と続いていくもの。関西で東北から離れてるから第三者目線になってるような気がしてとても寂しく思いました。

しかし、最初に書いた「非日常はやがて日常に変わってしまう」はどうしようもない普遍の事実です。では、どうすればいいか。自分たちは東北の人たちと違うと第三者目線から見るのではなく、「自分事」として2.5人称目線で考えることが必要かなと思います。震災は他人事じゃないだぞ、と。いつ自分や自分の家族、親戚の身に起こるかわからないんだぞと。

[自分の日常に東北への思いを日常化する。]

1人称は自分、2人称は家族や親しい友人など、3人称は他人を指します。第3者としてではなくその中間の2.5人称で、起きていることを寄り添ってできるだけ自分ごとのように感じることが必要なのではないかなと思いました。日本は知ってる人には優しいけど、知らない人たちには冷たい印象があります。だから同じ日本国民として震災を通してこれから変わっていかなければならないと思いました。

そのためには、やっぱり一回東北に行くことが必要だなって実感しました。自分は初めて東北に行ったのが11月の前半でかなり遅かったです。その間はなにか自分にできることはないかと募金とかしてたけど一回も行ったことがないのに募金をやるのは正直気が引けてました。そんなことを思っていながらも第三者目線の立ち位置がずっとあったように思います。

東北に実際に行ってみて、全然印象が違ったのを今でも覚えています。11月当時、勝手に頭の中で東北はある程度は片付いているんじゃないかなーと思ってました。でも、現実は震災当時とあまり変わってなくて壊れた家の瓦礫(と言っていいのかわからないけど)とかが一箇所に集められてるだけでした。流されて廃車になった車も3段くらいに積み上げられていてそれが海岸線に並べられていました。いたるところに、震災の爪痕が残っていました。流されて壊れた家の跡地はすべて更地になっていて、ほとんどすかすかの状態。こんなのまだまだ復興には程遠いなと思いました。また、被害に遭われた方と話をする機会とかがあって、そこで震災当時どんな様子だったかとかどんな気持ちで生活してきたかとかを話してくれました。自分のことを話すまでにどれだけの気持ちを整理させて生活してきたのだろうと思うと、とてもやりきれない気持ちになりました。映像で見たリアルと自分の目で見たリアルがどれだけ違うのか理解したように思いました。

一回関わることでそこの人たちとのつながりが出来る。そこでできたつながりは、どうしても「他人」と突き放すことなんてできないです。それが震災を自分事化する事なんじゃないかと思いました。もし自分が被災したとしたらどう思うだろう、どう感じるだろう。悲痛な叫びや思いを綴ったブログとかを見てるともしこれが自分の身に起こったとしたらどうなるんだろうと思うと怖くなりました。もし、家族が全員死んじゃって自分だけ生き残ったとしたらとか。震災のありのままを伝えてるルポルタージュを読んでどれだけの人が苦しみ、身内や友人の死を何とか乗り越えてきたかをひしひしと感じました。どうやってもまだ身内を亡くしていない自分にとっては想像でしか考えられないけど、本当に辛いし、泣きたくなるし、わめきたくなるよなと思いました。これを絶対に忘れてはならないと強く思いました。

2回目に3月の8日から10日まで3日間で少ないけど宮城県の石巻市に行って来ました。できるだけお金を節約しようということでJRの青春18切符を使って行きました。大阪から東京まで10時間。東京から泊まるところの宮城の多賀城まで8時間。計18時間かけて電車に乗って行きました。1日かかったものの、1日分で行けるので金額的には2000円くらいで行けるんです。どうか、一回みんなも行って欲しいです。
最終日の10日は雨のためワークができなかったため、女川町や東松島市に赴き、被災地が今どうなってるのかの視察に行きました。女川町は前回行ったということもあり前の時と比べながら見ることができました。前よりも瓦礫の数が少なくなったように思ったけど、まだまだ残っててこれからどうするのだろうかなと思いました。更地が広がっていて家がぽつぽつとある感じがたまらなく寂しかったです。
一方、東松島市の方は、ほとんどの手付かずの状態。こんなに被害がひどかったのかと言葉が出ませんでした。ほとんどの家の一階部分はえぐられててまるごとなくなっていました。木で作られた家はまるで紙のようにぺろりとめくられているかのようにむき出しになっていました。こんなひどい状況の地域があるのに、メディアはもう報道しない。取り残されているような気がして本当に辛くなりました。

今回、自分が関わったイベントで、2月14日から25日に大阪の難波のLoop Aというところで東北の写真展をやりました。自分が震災関連で何ができるか考えててたときに、「東北のことについての展覧会をやらないか」と言われとりあえず動いてみようと思い、コアメンで関わらせてもらいました。コンセプトは「関西の人たちにもう一度東北のことを思い返してもらおう」です。理由として、やっぱり東北とは距離的に遠いため、関西の人たちは震災のことを少しずつ忘れているような気がしたからです。こういうイベントはなかなか人が来ないんだよっていう施設の中の人に言われたんですけど、結果100人以上の人が来てくれて震災当時の気持ちだったり、これからやっぱり関わり続けなくてならないなって言ってくれてほんとうに嬉しかったです。また、来てくれた人たちに「東北の人たちに向けたメッセージカード」を書いてもらい、それを顔とメッセージカードを写真で撮って今度東北へ行く時に現地の人達に渡すことを予定しています。みんな言葉を選びながら真剣に書いてくれていました。自分がやったことが何か東北の人たちのために少しはなったかなと思ってよかったです。


2つ目に、寄り添うことはできるけど、どうしても被災者の気持ちを完全に理解することはできないという宣告
先日被災者の悲痛な胸のうちを語ったブログを読みました。記事の概要は、ボランティアとか来てくれていろいろ自分たちのためにしてくれるのはありがたいけど、結局はその人たちには「帰る家」があるわけで。疲れた時、自分の家がないことがどれだけ精神的にしんどかわからないだろうっていうことが書いてありました。

この記事を読んで、確かにと思ってしまいました。僕らには「帰る家」がある。寝るためのベットがある。1人になれたり、家族と話したりする他とは区切られたスペースを確保することができる。しかし、東北で被災した人はつい最近まで他の人たちと常に共同におんなじスペースを共有していかなければならなかった。これが、長期的に続く。いなくなった家族を探したり、津波に流されたりして亡くなった知らせを聞いたりしながら、毎日疲れた状態で他の人たちと一緒のところで寝泊まりする。それも最小限の資源で。これがどういうことなのか深く考えてなかったと反省しました。一人の時間がない、安心できるところ、ふーって息をつけるところがないという事実がこんなにも辛いとは感じることはできませんでした。そして、それをまだ体験したことがない自分は寄り添うことができても、完全に被災者の気持ちを理解することってできないのかなと思いました。突き放すようで言葉の選び方に困るけど、自分は当事者ではないから。
これからのことは後に書こうと思います。


3つ目に、「幸せ」ってどういうことなのかを考えなおしました。
幸せってなんだろう。ひとりひとり幸せの定義は違う。食べることが幸せっていう人もいれば、モノを買ってるのが幸せっていう人もいる。誰の幸せが一番だなんて優劣をつけることはできないです。
幸せの度合いは人によって違えど、生活できていることって本当に幸せなんだなって感じるようになりました。例えば、友だちと笑い合ってる時、友だちの笑顔を見るだけで小さな幸せを感じるし、大好きなものがいつもよりも安く手に入ったりしたことであー幸せだなって感じるだとか。こんな自分と仲良くしてくれる友だちがいることだってとっても幸せです。そんなことは普通は考えもしませんでした。それが幸せだとは気が付かなかったから。いつ未曾有の出来事が起こるかわからない。いつ死ぬかもわからない。だからこそ生きていられる今を楽しもうと思うようになりました。現時点での自分の幸せの定義は、「何気ない日常を過ごしていられること」です。


4つ目に、人との繋がりの連鎖を特に感じました。
助けあうことがいかに必要だったか、それによってどれだけの人が助かったか。この震災で人の繋がりの強さっていうのを感じたように思いました。ボランティアとして東北に行って、現地の方と知り合って繋がって、自分が帰ってそれを共有して、それがまた他の人がボランティアで東北に行くようになって、…。いろんなプラスの連鎖が生まれていくのがとても嬉しかったです。そもそも東北派遣に参加したのも前に行った人のプレゼンで行くことを決めたこともあって、そこから自分も含めて良い意味で変わったなーと思います。

5つ目に、震災から学んだこと
①感謝すること
②SNSの強さ
③人って強い
④不測の事態に備えておくことの重要さ
⑤いかにいろんなことを自分事化するか
ということです。

①感謝すること
自分が今まで普通に生きてこれたこと、これがどれだけ幸せだったかっていうことを噛み締めました。親はもちろん、おじいちゃんおばあちゃん、近所の人、友だちとか。「普通」に「普通」の生活をすることがどれだけ難しいかとか言われてきたけど、いまいち実感できなかったです。そんな中で震災が起きて、人が津波に流されて簡単に亡くなっちゃう、震災を機に全てが一変してしまう様を見て、こうやって生活していられるのも本当にありがたいなーって思うようになりました。「ありがとう」を言う機会がかなり増えたと思うし、感謝を言うことに対する恥ずかしさもなくなったように思います。それに感謝をすることって結構いいサイクルを生んでいるような気がしてとてもいいことだなって思いました。今に本当に感謝しています。

②SNSの強さ
震災当時、一気に現地にいる人たちと連絡を取ろうとしたりして、電話回線がパンクする事態が起こりました。そこで連絡をとる手段として活躍したのがTwitterなどのソーシャルメディアです。東北で何が起こっていたのかわからなかったりどうなったのか知りたかった当時、一気に情報が流れました。東北がどうなっているだとか、避難所はどこになったのかとかをそれによって確実にスムーズに情報のやり取りが出来るようになったと感じました。確実にTwitterがなかったら被害は大きかったと思います。もちろん、時には誤情報が一気に流れたりしてパニックになったりもしたものの、それ以来多くの日本国民がソーシャルメディアのブームが来たように思います。

③人って強い
震災関連のビデオや本を読んでると、震災が起きた当初から「さあ、これからみんなで復興しましょう!」って言っているおじいちゃんたちの声をよく聞くなって思いました。自分だったら、家も自分の親類も亡くなって途方にくれている状態で、こんな言葉を言えないと思います。それを切り替えたというのかどうかはわからないけど、震災で被災したという状況を理解してこの言葉を言ったと思うと、もうすごいとしか思えませんでした。

3月8,9,10日で自分の所属しているサークルの母体団体の東北のボランティア派遣に2度目の参加をしてきました。3月10日、東松島の月浜というところで漁師のおっちゃんらに話を聞きました。

「今食べてるカニや牡蠣がここにあるのは、網だってぜーんぶボランティアのひとたちが助けてくれたからだよ、本当に感謝してる。わざわざ東北に来てくれるだけでありがたいんだ。現段階のボランティアはは瓦礫の撤去だけじゃないからね。」

って言ってくれました。

このとき、ああ、来てよかったなあと思ったし、人ってすごい強いなと本当に実感しました。11月に行ったきりでなかなか時間を見つけられず、自分なんて本当にちっぽけで、何ができるわけでもない素人だし、どうすればいいんだろうと震災関連の現地の状況を綴ったルポとかを見ながらもどかしく思ってました。でも、実は東北の人たちの中にはそういうふうに思ってくている人たちがいて、こうして自分たちが行くということだけで嬉しいって言ってくれることを知りました。そして、こんなことを言えるなんて本当に強いと思いました。家が流されて家族と離れ離れになったりして、身近な人が死んでいった状況を受け止めてそれを踏まえて言っているから。自分の少ないボキャブラリーでは言い表せないくらいすごいと思いました。自分にはほんとにむずかしい。

④不測の事態に備えておくことの重要さ
自然災害には人は勝てない。だから不測の事態に備えて準備しておくことが必要だなと思いました。モシモがいつ起きるかわからない。だからイツモ用意しておく。いざ震災などの自然災害が起きた時に用意していないと慌ててしまうけど、イツモ用意しておけば、いざというときに少しは安心できます。モシモ防災からイツモ防災へのシフトが必要だなと感じました。しかし、この点において大変なのは個人的な備えではなくて、市や都道府県での災害への備えです。自然災害っていつ起こるかわからない。明日来るかもしれないし、自分たちの生きてる頃には来ない可能性だってある。いつ来るかわからないもののために多額の税金を使って対策することへの市民の理解を得ることが大変だからです。今回の震災で

⑤いかにいろんなことを自分事化するか
震災でよく感じたことは、自分の国のことなのにどこか他人事のように感じてしまうことです。日本に住んでいる時点で決して他人事ではないのに。周りも見ても自分の中でも少し危機感が薄れつつあるように感じます。あれだけの被害が出たのに。次に他の大地震が起きるかもしれない。そんなとき、自分が被災する立場になるかもしれない。だから、出来る範囲で物事を自分事化する。ひとごとじゃなくって自分にも関係しているんだぞって思う。自分への戒めでもあります。


最後に今後どうしていったらいいのかを考えました。

厳しい冬を越えだんだん暖かくなってきます。それで生活が楽になるかというとそうでもありません。仕事だってしなくちゃならないし、子どもがいる家庭は子どもを育てなくちゃならない。春休みもそろそろ終わり、ボランティアの数もだんだん減ってきています。自分も春から学校が始まり、授業やゼミやらでほとんど時間がとれなくなります。
じゃあ、こんな自分に何ができるか。しょうみ、ほとんどないです。ずっと東北に行ってボランティアを続けるわけにもいけません。ありきたりだけど個人的には、東北のことを自分のできる範囲で頑張ることぐらいしかできないと思います。被災地へ行くだとか、被害を受けた人の話を親身になって聞くだとか。常に忘れないことや、東北へのアンテナを常に張っていて被災地の状況をもっと知ろうとすること、自分の思いをみんなと共有することだとか。距離的には遠いものの、心理的な距離ぐらいは近くにいたいと思いました。ちっぽけな自分ながら、何にもできないことはないってことがわかっただけで一番の収穫。石巻で牡蠣をご馳走してくれたおっちゃんたちにまた会いたいです。

「忘れてないよ、忘れないよ。」 


”被災地にいる人々が数えきれないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決める事。復興とは家屋や道路や、防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れて、それを一生十字架のように背負って生きていく決意を固めて初めて進むものなのだ。” 
 石井光太著 「遺体」



Leave a Reply

umaretatee. Powered by Blogger.