”日本のFacebookの会員数は上記のように600万、日本人の人口のたった1/20でしかない。アメリカやインドネシアみたいにFacebookの登録率が恐ろしく高い国を除けば、500人の実際の友人がFacebookにいるということは、偏差を無視すると現実世界では1万人と会ったことがあるということだ。政治家でも無い限り、なかなかあり得ない数字。つまり「500人以上のFacebookで友人がいる人は会ってないヤツと簡単に友人になる人」ということがほぼ言える。ましてや友人2000人とかは変な魂胆でもないとあり得ない数。500人以上の友人がいれば、架空IDがついている確率はほぼ100%。当たり前です。相手はこういう感覚の人を狙ってるわけですから。つまりFacebookで友人数がむやみに多い人はセキュリティ感覚がないということを周囲にアピールしているようなものです。こんな人とは友人になりたくありません。
もちろん、友人の中身見て本当にほとんどがリアルの友人だな、と思われる顔の広い人もたまにいます。その場合は当然、承認してますが。”

いまやFacebookで友人数が多い人が嫌われる理由

最近急にFacebook、Twitterをはじめる人がとても多いように感じます。去年の夏を超えたあたりから。交友関係がソーシャル上でも行われるようになりました。それゆえに、前よりも気軽に意見交換だったりや自分の思ってることだったりを伝えられるようになりました。もちろんこれは良い点です。自分自身も前よりも増えてとても楽しくやっています。

しかし、もちろんいい面だけではないです。最近思うのは、交友関係の評価がだんだんずれているのではないかなって思います。その違和感は「数」を意識しているからではないかなと思います。上記のサイトからの引用文のように友だちの数が500人とか基本的にはありえないように思います。フィードが常に更新されて結局見てほしいものを見れなくて意味がなかったり。それだけの情報量をこなす能力があれば別だとは思いますけど。僕自身もそろそろ減らそうかと思います。増えすぎてるので。いい機会だし。

「おれってこんなに多くの友だちがいるんだぜ。」「すごいなー。」
こんなやりとりをよく聞きます。数が増えるにつれて、一人ひとりの関係は希薄化していきます。それでいいのだろうか。今は外国の人といつでもスカイプだったりでつながれる時代。身の回りの人たちという環を乗り越えて外の人という環と仲良くなろうとしてる傾向があるのではないかと少し思いました。その順番おかしくないかな。
「半径50mの人たちを大切にする。」震災が去年の3月11日に起こって、日本国民みんなが身近な大切なひと、家族、友だち、彼女、彼氏をもっと大事にしようという気持ちが心の中に生まれたかと思います。しかし、今やその気持ちが違う意味にシフトしてしまったように感じるんです。身近な人を大切にできなきゃ、他の外の人だってできないと思います。


やまざきはるなさんのブログから引用。
”大学で授業を受けたり学外で講演を聞いたりすると、テレビや雑誌で出てくるようなひとだとかその業界での有名人だとか、もしくはさほど年齢は変わらないのにうらやましいほどの能力がある誰か、に会う回数がすごく増える。高校までの世界と比べて圧倒的に広がって興奮した。その分、焦燥感に駆られることも増えた。ああなんて自分は平凡なんだろう。すごい人と会う、すごい人と話す、のはとても幸せだ。恍惚感すらある。尊敬できる人に出会えるのはとてもいいことだし、たくさんの人の話を聞いて、できるなら話して、どんどんいろんなことを吸収したらいいと思う。ただ、「誰々に会った自分」というアイデンティティにしちゃいけない。「普通の同級生には興味ありません、すごい人と友達になりたいんです」というなにかのラノベに出てきたような台詞を、明言しないにしても感じている人は(別に新入生だけじゃなくて)わりと多いのかもしれないのかもしれない。でも、圧倒的に「平凡な」人の方がこの世界には多いし、その平凡さから目を背けたら、多分何かが死ぬ。だってあなたは平凡だから。私自身はいろいろタイミングがよくて、入学して2ヶ月もしないうちに、人生のどこかで会って話がしたいと思っていた人と会う機会が与えられてしまった。ある意味、ゴールしちゃった。会いたかっただけだったなあ、ほんとに、とあとから気づいてちょっと愕然とした。「考えさせられました」「刺激になりました」という言葉を簡単に使うのはあんまりよくないと思う。それで片付けちゃだめだ。刺激や変化を外側に求めるのは大事だけど、外側に“だけ”求めてちゃつまらなくなるし、いろいろ見失う。”

18歳から22歳までの4年間で(かろうじて)わたしが学んだこと

これも思うこと。交友範囲の広さが広いのが自慢なのではなく、求められているのは「自分」だということをよく思います。大学に入って確かに会ってみたかった人には、講演会だったりに行ったりして会うことができるようにもなるし、ブログが流行ってる今、その人のアタマの中を少しだけ覗くことも出来るようになりました。
「知り合いが◯◯の従兄弟でさー。」「おれの友だち、◯◯で働いてるらしいよ。やばいよね。」「おれの友だち、それ知ってる!」とか。

直そうとしても時々自分も言ってしまうことがあるから、ちょっと言いづらいんだけど、ほんとにこういうことは誰のためにもならないと思う。誰得?
知ったところで、そうなんだーしか言えないし他に何か言うことある?友だちの話はいいから、じゃあ自分はどうしたいの?って言いたくなる。自分は、自分。他人はどうしても他人。それは変わらない事実。普遍。
「友だちや、自分の親戚がすごいからって全く自分はすごくない。」
これを認識するまでは変わらないように思いました。じゃあ自分はどうなのか、どうするべきなのか、そこが重要なのではないかと思います。


僕自身、インプット、かなりしてきたと思います。忘れてきたことも多いですけど。自分の考えをなかなか言うことができないため、自分のかんがえを書くことから始めようと思っていろいろ書こうかこう思っていた話題があるので、アウトプットとしてこのようにつらつらと書いています。いろんなひとのブログ見てきて、何でこの人はこんな風に考えられるんだろう、すごいなー。どうしたらいいんだろうって思うことも多くあります。羨ましくもなります。でも羨んでるだけでは変わらないです。今はとても考えが浅いし、自分の考えと言っても思いを書いてるような感じだと思います。でも、続けてみなければわからないとも思っているのでちょこちょこ続けていこうと思います。



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